フィギュアは,自分の内なる(失われた)大切な人との交信に有効かも知れない。ただ,記憶や性格の再現ということでの自身の蘇りというと別問題。
一卵性双生児は全く同じDNAで似たような環境で成長するが,結局は別人であることは誰しも認めるところ。冷凍保存された死体を蘇生できたとして,目覚めるのは自分自身(の魂)だと,果たして確信が持てるだろうか。ましてやコンピュータ技術の複製物と称するものも似て非なるものに過ぎないのでは。自分の複製と称する代替物が自分の死後もあれこれ振舞うというのは,アイデンティティを乗っ取られるようで気味がいいものではない。
それよりも,自叙伝なり,日記なり,書き残したものは,自分の魂の一片を後世に伝えているのではないかと思える。漱石の小説を読むと,赤の他人の自分でも漱石の感情を共有できるし影響を受ける。文章を書くと漱石風になることもある。家族に書き残すなりビデオレターを残すなりした方がお手軽では? もっとも見てくれる人がいたとしての話だが。