田沼意次の父が紀州藩主時代の徳川吉宗に仕えたことから、吉宗が8代将軍になると、江戸に移った田沼意次。徳川家重の小姓となるが、家重が9代将軍となると異例の速さで老中まで上り詰めた。吉宗の享保の改革の後も幕府は赤字を抱えていたが、田沼が老中となると商業を重視した刺激的な経済振興策を打ち出した。
知恵その1:思い込みを捨てて優先順位を見直せ!
税収源を米から商業に替えたり、輸出品を金銀から俵物(フカヒレ・いりナマコ・干しアワビ)に切り替えたり、優先順位を見直したことで税収や貿易収入を上げたり、当時は大阪は銀貨・江戸は金貨だったシステムを統一通貨にするという改革を行い、経済振興を促した。
知恵その2:全員と会え!
現在の大手町・経団連の場所が田沼意次の屋敷だった。田沼の屋敷はいつも来客で一杯。来客の助言を聞き入れることで、朝鮮人参の国産・綿羊の飼育・新規鉱山の開拓・白砂糖の独占販売等を進めた。
家重の死後も、世子の10代将軍徳川家治から田沼に対する信任は厚く老中を続けるが、家斉が11代将軍に就任すると、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免し、吉宗の孫である松平定信を老中に任命した。これによって、田沼は失脚し、松平定信による寛政の改革へと繋がり、再び緊縮・節約政策となった。