徳川四天王、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政から知恵を学ぶ
徳川四天王、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政から知恵を学ぶ。
井伊直政は俸禄と誇りを保証することで武田の旧臣を取り入れた。こうして武田伝統のの赤備えは井伊直政へと引き継がれ、井伊直政が後に彦根藩主となったことで、彦根にゃんは赤い兜を被っているとのこと。なるほど!
若くして家康に取り立てられた井伊直政を妬んだ榊原康政を重鎮酒井忠次は厳しく諌め榊原はこれに応じた、意外と人間臭い四天王。
1584年小牧・長久手の戦いでは、赤備えの武田の旧臣を率いる井伊直政、僅か500人の群勢で秀吉率いる2万の大軍と対峙した本多忠勝、秀吉を逆賊扱いした檄文で戦況を操った榊原康政、と、四天王はその力を結集し、秀吉を和睦に追い込んだ。
1600年関ヶ原の合戦では酒井忠次はすでに病死しており、前線で家康と共に戦ったのは井伊直政と本多忠勝。2人の署名入りの起請文を毛利家に届け毛利が合戦に参加しなかったことは味方大きな勝因のひとつだった。
ところが、榊原康政と家康嫡男秀忠は遅れて到着し、合戦には参加しなかった。激怒した家康を宥め説得し秀忠の許しを請うたのは榊原康政だった。