服部半蔵の父は伊賀出身の忍びの者だったが、忍びの働きは臨時雇用で固定給がなかった為、一家で三河に移り松平家の足軽となった。
半蔵は戦いの度に武功を挙げ家康の嫡男 信康の側近に取り立てられる。
天正7年(1579年)、信康とその母であり家康の妻に謀反の疑いがかかった。半蔵は、武田家のすっぱによる情報操作を疑ったが、確たる証拠はなく、妻は処分、信康は切腹、半蔵はその介錯を務めることになった。
1582年、本能寺の変が起こった時、家康は京都で信長に接見した後、堺の町の見物中だった。手勢は僅か30名ほどで、戦の準備もなかった為、本拠の三河に一刻も早く戻る必要があった。恩賞目当ての山賊と戦いながら伊賀者の力を借りて、かの有名な伊賀越えを成し遂げた。
半蔵は江戸城西門の近くに屋敷を設けた為、西門はいつしか半蔵門と呼ばれるようになった。伊賀越えを助けた伊賀者は家康に召し抱えられ半蔵門を守った。伊賀の忍びたちは、江戸時代、徳川家の為に隠密となって働いた。隠れ蓑として和菓子屋をやっていたが、太平の世の中、和菓子職人が段々本業になり、今日に至る。